2010年5月10日アーカイブ
2010年5月10日
プージェー
たまには個人的な関係の話題もお許し願いたい。
『 プージェー 』 という長編ドキュメンタリー映画の話をしたくて。
探検家であり医師の 関野吉晴 さんをご存知の方は多いと思う。
約800万年前、アフリカ大陸エチオピアからタンザニアにいたる大地溝帯
(グレート・リフト・バレー) の東側で誕生した人類 (ホモ・エレクトス) が、
ユーラシア大陸からベーリング海峡を越え、
南米の先端まで到達したのが約3万4000年ほど前だと言われる。
その距離およそ5万3000キロ。
関野さんは1993年、その逆をたどる旅を始めた。
南米の最南端チリ・ナバリーノ島から人類誕生の地タンザニア・ラエトリまで、
8年3ヶ月の年月をかけて踏破した。
動力は一切使わず、自らの腕力と脚力を頼りに遡行したその旅は
「グレートジャーニー 5万キロの旅」 と名づけられた。
テレビカメラも同行して特番で放送されたり、記録本も何冊か出版されている。
その旅の途中、モンゴルの大草原で、関野さんは一人の少女と出会った。
6歳にして自在に馬を操り家畜を誘導する少女、プージェー。
映画は、その関野さんとプージェー一家との、5年間の交流の記録である。
2006年に完成し、EBS国際ドキュメンタリー映画祭グランプリなど数々の賞を獲得した。
監督は山田和也さん。
フジテレビでの 「グレートジャーニー」 を制作したテレビ演出家でもあり、
最近の作品では、先月NHK・BSハイビジョンで放送された
「世界の名峰グレート・サミッツ クリチェフスカヤ ~火と氷の山~ 」 がある。
ロシア・カムチャッカ半島に聳える、5千メートルに近い氷河に覆われた火山と
ツンドラの厳しい自然を撮った、恐るべき映像マン。
こういう人がいてくれるから、僕らは世界の最高峰や秘境を茶の間で見ることができる。
僕が山田監督と出会ったのは5年前の9月。
大和川酒造の佐藤和典工場長たちと飯豊山に登った時に一緒だった。
その登山で、僕は何と登山靴の靴底を剥がしてしまい、
帰りの途中から監督の靴を借りて下山したのだった。
監督は山小屋に置き忘れられていた室内シューズで事もなげに下られた。
全然レベルの違う方だった。
それ以来、細々ながらもお付き合いさせていただいている。
さて、『 プージェー 』 はロードショーで一度観ていたのだが、
山田監督から、久しぶりに東京で上映会をやります、とのメールを頂戴した。
案内を見れば、関野さんと二人でトークも予定されている。
5月9日、場所は中野の 「なかのZERO」 小ホール。
映画の上映のあと、お二人のトークが行なわれる。
お二人は 『プージェー』 を撮ったあとも、家族との交流を続けていたのだ。
その話はとても哀しくて、うまく説明できそうにない。
社会主義から市場経済に移行してから人々は現金を求めて都市を目指すようになり、
08年からの世界的な金融危機はモンゴル経済にも大きな影響を与えているようだ。
遊牧民に対する国の助成も皆無に近くなって、
誇り高きモンゴルの遊牧民は激しく減少の一途をたどっている。
今回の上映会は、
草原に戻りたいというプージェーの家族への支援も兼ねて開かれたのだった。
右が関野吉晴さん、左が山田和也監督。
トークでは、モンゴルの社会状況に加えて、プージェーの同級生たちに会ってきた話、
親友だった女の子から 『プージェー』 を観ていただいた日本人へのメッセージの朗読
などが披露された。
そう・・・・・プージェーは交通事故で亡くなったのだ。
家畜の世話をしっかりやりながら、学校で勉強できる喜びを全身で表現していた女の子。
大きくなったら先生になる夢を語っていた女の子が、関野さんとの交流で、
「日本語を学んで通訳になりたい」 と言うようになった。
「じゃあ、通訳になって日本に来てね」 と語りかける関野さんに、
恥ずかしそうに頷いたプージェー。。。 映画の残像が消えない。
お二人とも、とても優しいまなざしと語り口である。
探検家というのは、かくも穏やかに落ち着いているものなのか。
生きて感じ取ってきたものの質が違うんだ、きっと。
僕が地球の鼓動と一体になれるのは、、、最後の時だけかな。
『 プージェー 』 上映会は、あと一回、
5月16日(日) にもあります。
場所は同じ 「なかのZERO」 小ホール(JR中野駅南口から徒歩8分)。
山田監督のトーク 「プージェー家族のその後」 も予定されています。
春風亭昇太さんがゲストとのこと。
夜ですが、もしお時間ある方はぜひ。
詳細は 「プージェー」 公式サイトにて http://puujee.info/index.htm