食・農・環境: 2007年8月アーカイブ

2007年8月29日

『天地有情の農学』-消費者に問う農学?

 

8月7日の日記で、宇根豊さんの新著に触れ、

「うまく整理できれば改めて」 なんて書いてしまった手前、

どうも棚にしまえなくて、今日まで脇に置いたままである。

私なりに書けるだけ書いて、いったん収めておきたいと思う。

 

『天地有情の農学』
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天地とは '自然' のこと。

有情とは '生きものたち' のこと。

この世は生命のいとなみで満ちている、というような意味。

 

それを支える 農'学' の道を切り開こうというメッセージなのだが、

私には、迫られているような圧力を感じたのである。

こんなふうに-

 

消費者にこそ '農学' が必要なのではないのか?


1960年代より進められた「農業の近代化」というやつは、

農薬や化学肥料に依存し過ぎた生産方法によって、

環境(生態系)を壊し、人々の健康も脅かす要素を、高めてきた。

 

その反省や批判をベースに有機農業や減農薬運動は興り、

ようやく 『環境や生物多様性を育む』 仕事 としてまっとうに評価されるまでになった。

 

たとえば、農薬を使わない水田は生物多様性が増し、水系(地下水)も保全する。

カエルは、カエルの餌となる生き物や、カエルを餌とする生き物とつながっていて、

それやこれやの生き物の多様な循環が、環境の豊かさを構成する。

そのつながりを目に見える形で示すひとつの試みが、「田んぼの生き物調査」である。

 

この価値や、農業と自然の関係を、

きっちりと学問(科学)的にも明らかにする「農学」の確立を、

アプローチの手法、道筋を含めて提示しようとしているわけだが、

ことはそれだけではすまないから厄介だ。

 

無農薬のお米が環境を守ることにつながっているとしても、

その「環境保全」部分は、米の価格には含まれていない、という問題である。

 

価格には含まれていないが、それがあることによってもたらされるメリットを

「外部経済」と呼ぶが、

百姓(宇根さんは胸を張ってそう言う)が、

当たり前に百姓仕事をしてくれることによって得られている、

米代に含まれない大切な外部経済の部分を、誰がどうやって保障するのか。

 

そこで宇根さんは「環境デカップリング」の導入を提言する。

EUなどですでに実施されている仕組みで、

環境を維持するための指標を作って、それを実施する生産者に一定の所得保障をする

という考え方である。

 

この考え方はたしかに、

「有機農業推進法」の「推進に関する基本方針」の中でも、

検討の必要性が盛り込まれている。

 

しかし・・・・・ここで私は靄(モヤ)に包まれたような気分に陥る。

 

私の知る農民の本音は、

田んぼでたくさんの赤とんぼを育てたところで、補助金を貰おうなんて思っちゃいない。

フツーに米や農産物を売って、フツーに食っていければいい、という感じである。

 

とはいえ、安い輸入農産物に押されて価格が低迷する今のご時勢、

このままでは外部経済の価値が守れない。

 

そこは税金で補償するしかない......のか。

 

宇根さんの「天地有情農学」論に賛辞を送りながらも、


私はこの最後の経済の部分で、わだかまりを捨てきれない。

 

税金を使うには国民の合意が必要である。

たとえ消費者が納得したとしても、生産者は喜ぶのだろうか。

安い米を買って、別な形で税金をつぎ込んで補償するという格好は、

けっして生産と消費のまっとうな関係とはいえないのではないか。

 

私としては、例えば

1kg=600円でお米を買った後に、環境支払いという名目でもう100円徴収されるよりは、

1kg=700円を "佐藤さんの米代" として出したい。

それで佐藤さんが当たり前に有機農業が持続できる価格として。

(これが今の「大地」の基本姿勢でもある)

その方が消費者の'支持の選択'権も多様になる。

 

しかし、そんな悠長なことは言ってられない、ようなのだ。

水や空気はすべての人に同等に与えられているわけだから、

国民には等しく負担してもらわなければならない、と。

 

安さを求める人には別途税金を-

生々しい話であるが、こういう議論もしなければならないほど、

「農の危機はイコール環境の危機」 という構造になってしまった。

天地有情の農学は、こんなふうに我々消費者に'農学'を迫っている。

 

私はまだ結論が出せない。

とりあえずは、農業の価値に国民的合意を得る上での論として支持しつつ、

一方で、大地の提唱する「THAT'S国産」運動の方が好きだ、

とは言っておきたい。

 

※「THAT'S国産」運動......'国産のものを、まっとうな価格で食べよう' という運動。

                  畜産物の餌も国産にこだわることで自給率を上げ、

                  輸送コストを下げることでCO2削減にも貢献できる。

 



2007年8月 7日

「農と自然の研究所」東京総会(続き)

 

昨日は宇根豊という人物についての紹介で終わっちゃったけど、

総会の内容にも、ちょっと触れておきたい。

 

ひとつは、この総会に農水省の役人が来たことだ。

少し頼りない感じの若い方だが、報告した内容は無視できない。

 

7月6日、農水省が出した「農林水産省生物多様性戦略」について。

 

「安全で良質な農林水産物を供給する農林水産業及び農山漁村の維持・発展のためにも

 生物多様性保全は不可欠である」

 

どうも役人の文章は好きになれない。あえて分かりにくくさせているようにすら思える。

という感想はともかく、

第一次産業という人の営みが生物多様性を育んできたことを農水省も認め、

それを高く評価して、

安全な食べものを供給する上で、生物多様性の保全は欠かせない「戦略」である、

と言ってくれているのだ。

 

農水省が、農業生産と生きものの豊かさの間に重要なつながりがあることを認めた、

という意味では、画期的なことと言える。

 

しかし・・・・と思う。


君らが推進してきた'農業の近代化'こそが、生物多様性(生態系)を壊してきたんじゃないか。

反省はあるのか、こら!

 

それが、あるんだ。いちおうは。

 

「しかしながら、不適切な農薬・肥料の使用、経済性や効率性を優先した農地や水路の整備、

 生活排水などによる水質の悪化や埋め立てなどによる藻場・干潟の減少、

 過剰な漁獲、外来種の導入による生態系破壊など

 生物多様性保全に配慮しない人間の活動が生物の生息生育環境を劣化させ、

 生物多様性に大きな影響を与えてきた。」

 

そう進めてきた張本人のわりには、何だか客観的な言い方が気に入らないが、

生物多様性の保全のための具体的な取り組みとして挙げてきた内容は、

ほとんど我々の陣営から育ってきた主張が並んでいる。

有機農業の推進も盛り込まれている。

 

それもそのはず、宇根さんはこの「戦略」作りの委員だったのだ。

 

里地・里山・里海の保全、森林の保全、地球環境への貢献......と

総花的内容にどこまで期待できるかはともかく

(いずれにしても具体化や予算化はこれからだし)、

よくぞここまで書かせたものだと、脱帽するほかない。

 

説明する農水の若手役人も、「やります。本気です」と言う。

省内では色々な突き上げもあったようだが、

昨年の「有機農業推進法」といい、

農水省内部も変わりつつあることは確かなようだ。

 

有機農業運動にとって、宇根豊という思想と個性を得たことは、

これで運動に血が通ったような幸運すら感じさせる。

時代を変えるパワーの発信源のひとつであることは間違いない。

 

生産者の方は、この「戦略」をどう読み、活かすか、ぜひともご一読を。

            (↑この2文字をクリックすると見えます)

 

総会の後半では、

これまで宇根さんと関わりの深い出版社の編集者が呼ばれ、

『農の表現を考える』と題してのセッションとなる。

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ここまで獲得してきた世界を、その価値を、どういう全体像に現わしていくか。

ただの観念論に陥ることなく、「科学」(的視点)もしっかり取り込み、

新しい'表現'をつくりあげたい。

 

宇根さんは、もう次に行こうとしている。

 

そして、このタイミングで、宇根ワールドの現在の地点を示す書が出された。

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尊敬する出版社のひとつ、コモンズから。

渾身の1冊!である。

この書の意味は、実に深い。うまく整理できれば、改めて。

 

「農と自然の研究所」の活動は、あと3年。

きっちりと、ついていってみたい。

 



2007年8月 6日

「農と自然の研究所」東京総会。農の情念を語る人、宇根豊。

 

昨日(8月5日)、

NPO法人「農と自然の研究所」の東京総会というのが青山で開かれた。

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この研究所の本部は福岡にあり、宇根豊さんという方が代表をしている。

会員は全国に885人。私もその一人である。

 

この宇根豊という人物。

農学博士の肩書きを持つが、

もとは福岡県の農業改良普及員(農業の技術指導をする人。県の職員)である。

その、まだ若かりし普及員時代の1978年、今から約30年も前、

当時の農業指導理論の常識を逆さまにひっくり返して、

初めて'農薬を使わない米づくり'を農家に指導した公務員として知られている。


それは「減農薬運動」と言われた。

ただ'農薬をふるな'というのではない。

マニュアル通りに機械的に農薬を撒くのではなく、

一枚一枚微妙に違う田んぼの様子をしっかり観察し、害虫の発生状態を自分の目で確かめて、

本当に必要な時に撒くことが農業技術だ、と伝えていったところ、

農薬散布が劇的に減っていった、という話である。

 

当たり前に持っていたホンモノの百姓仕事をしよう、と言ったのだ。

これは農民の主体性を取り戻す運動となった。

 

僕と宇根さんとの出会いは1986年、

東京・八王子で開催した「食糧自立を考える国際シンポジウム」だった。

米の輸入自由化が社会的に大きな議論を呼んでいた時代。

アメリカやタイ、韓国など、たしか10カ国くらいから農民や研究者が集まって、

食料の自由化がどんな問題を孕み、どんな影響を与えるかを討論した、

かなり画期的な国際会議だったと思う。

 

大地はこのシンポジウムの事務局団体のひとつとして参加していて、

宇根さんには、日本側パネラーの一人としてお願いし、招聘していた。

彼は海外からやってきた農民や研究者の前で、

「赤とんぼは、田んぼから生まれるのです」 とやったのだ。

 

「田んぼはたくさんのいのちと文化を育んでいる」

 

農民団体が「一粒たりとも・・」とか叫んでいる中で、

僕は宇根さんによって、

「もっと視界を広く持て」 と教えられたような気がしたのである。

 

さて、思い出話はともかく、

彼は、周りは敵だらけの減農薬運動から始まって、

その後も思想を深め、理論を発展させ、2000年、とうとう県職員を辞し、

活動を10年と限定して「農と自然の研究所」を設立した。

 

研究所を設立してからは、田んぼの生き物調査の手法をガイドブックにまとめて

全国に広げる一方で、自らの思想を「百姓学」として構築しつつある。

福岡県は、この生き物調査を「県民と育む農のめぐみ事業」と称して、助成金をつけた。

環境に貢献する農業仕事として、価値を認めたのだ。

 

そして昨年、研究所は朝日新聞社の『明日への環境賞』を受賞した。

見事なたたかいっぷり、と言うほかない。

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宇根さんは、いま僕が最も尊敬し、注目もしている'思想家かつ実践家'の一人である。

しかし、宇根さんの思想は、僕の力ではなかなか解説できない。

たとえば、こんなことを言う人なのである。

 

お金に換算できない百姓仕事が、実は自然や環境といわれるものを一緒に育ててきた。

近代化や科学には、この価値がとらえられない。経済合理性の目では'見えない'のだ。

私たちはその広大な世界を見つめ直さなければならない。

 

あるいはこうだ。

 

田の畦草刈をしていて、カエルが足元の草刈り機の前を跳んだとき、私は立ち止まる。

何回も立ち止まってしまう。

それを経済学者は生産効率を低下させる無駄な時間だととらえる。

また生態学者は、この田んぼにいるカエルの数から見て、数匹殺したところで影響ないと答える。

しかし、2~3匹斬っちゃっても問題ない、と立ち止まることをしなくなった時、

私の生き物を見る'まなざし'は、間違いなく衰えるのだ。

 

彼が目指すのは、'農と百姓仕事の全体性'の復活と再構築、とでも言えようか。

それを土台に据えて、虫たちとともにたたかいを挑んでいる。

まるで『風の谷のナウシカ』のオウムのようだ(ナウシカでなくてすみません)。

 

そして圧巻だと思うのは、こんな表現である。

 

私たちが美しいと感じる風景は、生き物たちの情念によってつくられている。

それを見る百姓の情念と交錯しながら、

「環境」や「自然」はたくさんの生き物たちと一緒に育てられてきた...

 

たとえば、ここにある大地の稲作体験の風景。

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この風景は、すべて生き物によって構成されている。

生き物たちの「情念」で満ちている。

私たちヒトは、その「情念」と交感できているだろうか。

 

「情念」というコトバを、そのコトバのもつ情感も含めて使いこなせる人を、

私はこの宇根豊という男以外に知らない。

 

話が長くなってしまった。でもここまできて、途中で終わるわけにはいかない。

この項続く、とさせていただきます。

 



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