2012年3月27日
石巻から塩竃に
" 他者の沈黙にむけて送りとどける "
と書いたのは、宮城県石巻市出身の作家・辺見庸である
( 『瓦礫の中から言葉を ~わたしの〈死者〉へ 』 から )。
作家はその命を削りながら言葉を探すというけど、
僕は何を見つけ出せるのか、震災から1年後の東北でまださ迷っている。
石巻では、高橋徳治商店 を訪ねた。
車で流れながら、道路事情もよく分からなかったので、
正確な時間を伝えられなかったこともあって、
社長の高橋英雄さんは先客と商談中。
代わって息子さんの利彰さんが工場を案内してくれた。
ま、こちらも、皆さんが元気で働いている様子をたしかめれば、
という感じでの陣中見舞いというか表敬訪問である。 長居は禁物。
表面上は復旧したかに見える工場だが、
動く製造ラインは7本のうちの1本だけ。 稼働率は震災前の15~20%という状態だ。
79名いた従業員のうち、今雇用できているのは23名。
工場内の津波浸水の跡を見せられ、
周りの状況からみても、1年でよくぞここまで復旧させたと思う。
「取引先の皆さんがたくさん応援に来てくれて、そのお陰です。」(利彰さん)
大地を守る会も、おさかな喰楽部の人たちが中心になって、
浸入した泥の片づけボランティアに来ている。
いろんな工程を手作業で乗り切りながら、
数百あった製品をひとつずつ復活させていくしかない。
「地元の原料がまだ入る状態になってないんで・・・」
石巻の原料をベースにやってきた水産加工者の歩みは、
地元漁業の復活とともにある。 道のりはまだまだ長い。
秋には新工場がお隣・松島町の高台に完成する予定である。
ようやく土地の引渡しが終わったとのこと。
年末商材の製造には間に合わせたいね・・・ 「そうですね」 と頷く利彰さん。
今は復活第一号の 「おとうふ揚げ」 をヨロシク、ですね。
帰り際、英雄さんが声をかけてきた。
「エネルギーの自給に向けて進みたいと思ってる。 知恵を貸してくれ。」
望むところです。
港周辺の様子には言葉は出てこず、ため息のみ。
更地になったところに設置された小さな社。
復興を祈願して石巻を後にする。
松島町でカキの二宮さん宅に立ち寄る。
義政さんは葬式があって出かけた後だったが、
貴美子さんと、仕事から帰ってきた息子さんの義秋さんが、
仮住まいのアパートで出迎えてくれた。
炬燵に入って、適当にお喋りして、おいとまする。
来年のカキ復活に期待して-。
この行程で、塩竃の遠藤蒲鉾店を外すと、あとが怖い。
由美さんから 「ご飯食べずに来てね」 と再三言われていたのだが、
そうもいかない時間となって、お詫びする。
「じゃあ、今度は泊まりで来ること」 と約束させられた。
こちらもご長男の哲生くんが案内してくれる。
伝統の石臼、健在。
女性陣が 「大地から届いたごぼう」 を処理している。
ごぼう天の原料ですね。
ウチの野菜は泥つきのままだし、サイズも不ぞろいで ・・・すみません、厄介かけます。
優しく笑ってくれるが、腹の中は 「まったくね」 か。
「ゴボウの次は蓮根ね」 と由美さんが指示する。
全部手作業である。
哲生さんのお連れ合い、美紗子さんにも入ってもらって
玄関で記念に、というより訪問した証拠写真を一枚いただく。
美紗子さんは埼玉出身。
「由美さん、いじめてない?」
「何言ってんのよ~。 もう可愛くて可愛くてよ、ねえ。」
観光地は横目で通り過ぎ、
三陸の海と浜の姿を目に焼き付けながら、走ってきた。
走行距離約 450km の貴重な東北旅だった。
23日夕方、冷たい雨の仙台でレンタカーを返して、
福島に到着してビジネスホテル泊。
明日は、磐梯熱海で全国集会。 パネラーなのだが何も考えられない。
気になるのは、茜さんからもらったお土産のロールケーキ。
常温のままだけど、「須佐さん(千葉さん生前時の担当職員) に渡してね」 と
頼まれたのだ。
帰るまで食べるわけにいかない。
おつかれさまでした!
まだまだ復興の予備段階ってところですね。
いつまでも買い支えて行きたいと思います!
皆様によろしくお伝え下さいませ!