2008年7月22日

" とっつぁん " 

 

7月19日夜、千葉・山武の稲作体験田での草取りと蛍見会を終えて、

田んぼの地主、佐藤秀雄さん宅の倉庫で、実行委員や生産者と一緒に一杯やっていたら、

携帯電話が鳴った。

千葉県八街市の 「千葉畑の会」 代表、内田賢次さんが亡くなられた、との連絡である。

みんなから  " とっつぁん、とっつぁん "  と親しまれた、スイカづくりの職人。

大地を守る会のカタログやチラシ類に何度も登場した、

いわば  " 顔 "  となってくれた生産者の一人である。

倒られて2日という、あっという間の旅立ちとなってしまった。 享年76歳。

 

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7月19日。 この日はもともと 「スイカ食味会」 が行なわれるはずだった。

毎年々々楽しみにしていた、とっつぁん最大のイベントである。

消費者にいろんなスイカを食べてもらおうと、品種も色々と植えていた。

今年は、春からの低温で生育が遅れ、一週間延期したのだったが、

本来設定したその日に、逝ってしまわれた。

まるで西瓜の神様に召されたかのように。

 

昨夜、自宅でお通夜がいとなまれ、本日、最後のお別れに手を合わせてきた。

 

とっつぁんと大地を守る会のつき合いは、設立間もない頃からであるから、

僕が偉そうに思い出を語るのは憚られる。

ただひとつだけ許してくれるなら、やっぱり、このエピソードだろうか。

 

1990年、第1回の 「タイ農民交流ツアー」 の参加者のなかに、内田賢次さんはいた。

タイ語など触れる機会すらなかったとっつぁんが、行きの機内で、

サワデーカップ (こんにちは、のつもり) とかコップンカップン (ありがとう、のつもり)

とかをカタカタで暗誦しながら、

しかし現地に入れば、何のことはない。 すべて日本語で押し通した。

「このお札は信用できん」 と両替所で文句を言ったりしたのは閉口したが、

やはり圧巻は、畑だった。

雨の降らなくなった東北タイの田んぼに入るやいなや、とっつぁんは、

これはこうしてああして、と一生懸命に、農民たちに技術を伝え始めたのだ。

現地の人たちは当然日本語は理解できないのだけれど、

とっつぁんを囲んで議論を始め、その言わんとすることを理解したのだった。

農民は分かり合える共通言語を持っている・・・・・

とても真似のできない力に、圧倒されたのを覚えている。

以来帰るまで、とっつぁんは、タイの農民からも  " お父さん "  の称号で呼ばれた。

 

バンコクの市場では、タイにもスイカがある! と喜んで買い求めていた。

一個一個手にとって、「これが一番だ」 とかいって、ホテルに帰って食おう、とか言う。

お店のオバサンが目方を計ろうとして取り上げると、

「何すんだ! オラのスイカだ 」 と怒ったりした。

 

とっつぁんの海外での呆れるようなエピソードはつきない。

しかし行く先々で、とっつぁんは " とっつぁん " となった。

恐るべきコスモポリタンだった。

 

とっつぁんの自慢は、もちろん西瓜だけではない。

彼は堆肥作りの職人でもあった。

山のように積まれた堆肥は、この人の土への深い愛を表現していた。

落花生では、こっちでピーナッツに仕上げる、と交渉したことがあったが、

煎り屋まで自分で選んで、譲らなかった。

 

後にも先にも、  " とっつぁん "   という呼び名が、こんなにはまる人はいないだろう。

なんか、またひとつ、「昭和」 が消えたような気がする。

 

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 合掌。

 


Comment:

内田のとっつぁんの訃報に接し、びっくりするとともに、残念でなりません。僕が大地に入って研修に行ったのが、とっつぁんの所でした。屈託のない笑顔と、ごつごつの手のひらが、今でも忘れられません。きっと、天国でもおいしいスイカを作っているのでしょう!心からご冥福をお祈りいたします。

from "松田博久" at 2008年7月30日 13:53

まっちゃん。ありがとう。
とっつぁんにはたくさんの新人の面倒を見てもらいましたね。
まっちゃんが一人前の有機お茶農家になって、とっつぁんも喜んでいることでしょう。先駆者の労が報われる時代を、僕らの手で築きたいものです。
猛暑が続いています。体に気をつけてね。 エビ

from "戎谷徹也" at 2008年7月30日 16:05

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