2012年6月17日
原田正純先生に
産地を回りながら、改めて思う。
というか、、、ようやくこんなふうにも書ける気がしてきた。
昨年 3.11の後、関東・東北の産地を回っては、
切迫した状況が訴えられたり、販売不振を責められたりしてきた。
7月に西日本の野菜セットを企画した時には、
「大地と組む (=契約する) のはやめる」 と宣告してきた生産者もいた。
俺たちを切り捨てるのか、
どうして福島や北関東の野菜を食べるよう説得してくれないのか、と迫られた。
彼らにとっては、「福島&北関東がんばろう」 のセットは、
やっぱりフツーの売り方ではないわけだし。
しかし・・・「食べろ」 と言って素直に食べてくれるほど事態は甘くはなく、
「(国の)基準値以下なんだから・・・」 という生産者の要求には、
そんなんではダメなんだよ! と声高に怒鳴ってしまったこともある。
現地の苦しみを差し置いて。。。
現実の問題として吐露すれば、
消費者の切実な思いに答えられない流通は失格、なのである。
西のもので揃えようと思えば、それなりに可能なのだし・・・
この狭間で揺れ続けた一年だった。
思えば、
この溝を埋めるために、「特命担当」 が生まれたようなものだ。
産地との確執は、正直言って公開の日記では簡単に書けない。
2月に放射能の自主基準を設定する時にもハレーションはあって、
対話に出かけたりしたのだが、腹を決めて
「流通基準とは食べる人を守るためにある」 と言い放ったこともある。
したがって、それを通過する生産物をつくることに尽力してほしい。
その産地を、僕らは必死で支援する、と。
消費者との信頼関係は、この行為によって修復される。
そう思うしかなかったし、今もそれしかないと思っている。
こういう話は、生では書けなかった。
ただ、いつだって変わらない確信がある。
この国土を回復させるためには、そこに生産者がいる必要がある、ゼッタイに。
現場でたたかう人がいて、浄化・再生・復興の道が開けるのだ。
僕はそれを、行く先々で確かめている。
実を言うと、「現場主義」 という言葉は、あまり好きではない。
仕事というのは、現場に出られない人たちもいてくれているから
成立しているものであって(管理者も含めて)、それを無視して動いても
思ったような成果は上げられず、逆効果になることのほうが多い。
でも 「現場」 を回っている人は、ついつい 「その現場」 偏重になる。
大事なことは、つなげること、なのだけど。
ここで唐突かもしれないけど、やっぱり、書き残しておきたい。
6月11日、勝手に師と仰いでいた方が逝ってしまわれた。
水俣病患者とともに闘い続けた医師、原田正純さん。
それまで 「あり得ない」 とされていた科学的常識を、
患者さんとの対話とたくさんの臨床から覆した。
-化学物質が胎盤を通過する、という事実を立証したのだ。
水俣病という悲しい事象から。
水俣との関わりが、さほどあるわけではない。
ただ似たような漁師町に生きた人間にとって水俣は、
少年時代からの根強い "引っかかり " であり、
生き方を縛るという意味では、トラウマ的影響力を与えられてしまった。
四国のど田舎で遊んでいた、ぼんやりした少年に
「勉強が必要だ」 という目覚めを与えたのは、ミナマタに他ならない。
4年前、大地を守る会の職員として 水俣を訪問 できたことは、
僕にとってちょっとした罪滅ぼしとして、ある。
原田先生との出会いは、学生時代に読んだ 『水俣病』(岩波新書) からで、
ただ遠くから眺めたり、ご活躍の様子を報道で知るだけだったが、
常に厳しく、かつ優しい眼差しで、ただしい 「現場主義」 を伝えてくれた。
いつか御礼をと思っていたのだが、もう叶わない。
遠くから、心衷よりご冥福をお祈りしたい。
「現場」 は違うけど、僕の中で原田正純は生きています。
ただ後進として、どれだけの希望を残せたのか。
3.11の経験をもってしても変われない状況は、
あまりにもやり切れない。
引き受けなければならない宿題である。
原田さんの教えにはまだ程遠い、今の僕の心境。
コカコーラの壜の中のトカゲ、
おまえにゃ、壜を割って出てくる力なんかあるまい、
そうだろう? 日本! ~
身を捨てるに値すべきか祖国よ。
(寺山修司 劇中朗読詩 「孤独の叫び 時代はサーカスの像にのって」 より)
とりとめない、日曜日の繰り言になってしまったみたい。
僕なりに、一週間遅れの、合掌の日としたい。