2012年9月 3日

昔、原子力に夢を見た男のひと言

 

おまけ話をひとつ、お許しを。

8月24日(金) の、その後のこと。

お巡りさんに地下鉄の入口まで見送ってもらって、

高校時代の仲間との飲み会に顔を出した。

田舎の高校を出て、それまでの人生の倍の時が流れたというのに、

電話やメール1本で関東在住の同級生が11人、集まった。

なかなかの結束力だと思う。

 

皮膚ガンの権威と言われるまでになった医者もいれば、

会社の社長に昇りつめたヤツもいれば、

女子の心をくすぐる心理テストの本など出している作家女史もいれば、

リストラに遭って何とか再就職した者もいれば、

競艇でスッてしまって夏は郷里に帰れなかったという破滅型のオヤジもいたりする。

もうそれぞれの地位など誰も気にしなくなった。

「 50を過ぎての同窓会は、楽しい 」

とフォーク・シンガーの高石ともやさんが言ってたけど、

その年齢になって本当にそう思う。

 

そんな輪の中に、若い頃に原子炉の設計に携わった男がいて、

こんなことを漏らすのだった。

「 もともと原発は、30年持たせる、という前提で作ってたんよ。

 それでもカンペキなものは作れんかった。

 それが40年に延長するという話になってきた時に、これはアカンと思た。

 そのうちにエライ事故が起きてしまうんちゃうかと言うとったら、

 ホンマに起きてしもた。 まあ、これは人災やな。 」

元柔道部の猛者。

原子力船 「むつ」 に乗りたくて、夢を抱いてその世界に入ったという男。

彼は今、塾の講師をしている。

 

事故後の元同僚とのやりとりなど、いろいろと出てくる生々しい話。

「 原発はやっぱりアカンかった。 辞めてよかったと思うとるけんど、

 ほんなことより、これからの子どもが心配やな 」

のひと言が、他の人とはひと味違った真実味をもって響いてきたのだった。

 

「エビっちゃんは今でも反体制か」 と問われ、

「アホか、今でも正義の味方よ」 と返す。

「よう頑張っとんな」

 ・・・・ こんなふうにサラッと褒められると、かえってうまく切り返せない。

うろたえながら、「まあ、、、しんどいけどな」 が精一杯。

 

深夜の電車で一人になって、

僕らは本当に、未来に大きな負の遺産を残してしまったんだと、

あの男のセリフを反芻しながら、改めて深く思った次第である。

 



Comment:

千葉市生涯学習センターでのシンポジウムはお疲れ様でした。以前、大地の「お米会議」のメンバーでした桝田さんを誘って参加しましたが、私が午後には仕事に戻らなくてはいけなかったので、ご挨拶もしないまま帰ってきてしまいました。
会場は小さいお子さんを連れた若いお母さんが多く来ていらっしゃいましたね。
今のお母さん達の不安な気持ちは86年に私達が味わったのとは比べ様もなく大きなものだと思います。

私も原発の耐用年数については折に触れ周りに「原発の耐用年数は30年のはずが、何時の間にか40年ということになってしまっている」という事を言うのですが、私が言っても説得力はなく、設計施工に関わった方に声を上げていただきたいですね。
あっちを直し、こっちを直しして何とか40年もたせようとしているだけだという事は素人から見ても明らかですので。
それにしても、お仕事だけでもお忙しいのに、同窓会にもきっちりお出になられる…脱帽です。
また、お目にかかります。

from "加藤利江" at 2012年9月14日 18:14

加藤さん

有り難うございます。桝田さんと並んで座ってらしたのが見えて、壇上から挨拶したかったくらいです。こちらこそごステージ裏でモタモタしてまして、失礼しました。桝田さんもお元気そうで、よかったです。よろしくお伝えください。

原子炉設計の世界から脱原発側に転換する方は、けっこういるようです。たしかにもっと声を上げてもらいたいところですが、残っている同僚たちへの義理のような気持ちは、僕らが想像するより強いようです。複雑な心境なのでしょうね。

昔の仲間と会って、懐かしいバカ話で盛り上がる。こういう発散もないと続かない、というのが本音です。それにどうも、幹事とか人集め(連絡係)とか、引き受けてしまうんですよね。

from "戎谷徹也" at 2012年9月14日 20:57

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