2013年8月 7日

原発 23 kmでの医療支援から

 

暦では立秋となりましたが、

いやー、暑いっすね。

皆様、体調はいかがでしょうか。

 

夏は嫌いじゃない。 むしろ得意な方だけど、

フライパンに乗せられているような都会の夏は、やっぱキツイ。

日射しは強くても直球勝負のような爽快感があった太陽、

生命感でむせるような草いきれ、やかましく騒ぐクマゼミの山、

麦わら帽子にスケッチブック、時折吹いてくる涼しげな風、

タオル一枚持って毎日のように潜りに行った海、

あの頃の夏はもう返ってこない。。。

 

特販課長という新しい任務(放射能対策との兼務) に忙しなく追いかけられて、

まったくブログに到達しない日々が続いた。

要は  " あと一歩 "  の気持ちだけなんだけど、ビールが入るともう書けない。

体は睡眠を求めてくるし・・・

 

しかし、この間の諸々は省いても、これだけは自分に課した義務として

残しておかなければならない。

7月25日(木) 開催、

『大地を守る会の放射能連続講座Ⅱ-第5回。

 " 福島の今 "  から学ぶ ~原発23kmでの医療支援を通じて~』。

ゆるゆると進めますが、お許しください。

 

講師は東京大学医科学研究所研究員、血液内科医の坪倉正治さん。

福島第1原発に一番近い総合病院である南相馬市立総合病院の

非常勤医も務めている。

月~水は南相馬で外来。 木曜日に帰ってきて、金・土は東京の病院で外来。

この2年、そんな日が続いている。

 

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都立駒込病院の血液内科医として働いていた坪倉さんが、

医療支援として東京都から派遣されたのが 4月の頭だった。

南相馬で起こったことを振り返ってみる。

 

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2011年3月11日、東日本一帯に大震災が襲う。

地震に津波。

南相馬市立総合病院はただちにトリアージの体制に入る。 

トリアージとは、非常事態時で医療の優先度を決める識別救急体制のこと。

翌日には DMAT(ディーマット/災害派遣医療チーム) が到着する。

若い医者が全国から駆り出された。

そこに原発事故が発生する。

3月15日の朝、3号機の爆発をテレビで見て、全体集会が開かれる。

病院に残るか、避難するか、判断は個人の意思に任された。

270人いたスタッフのうち、80~90名が残った。

医者では、常勤医4名と支援に入った大学の若い医者たちが残留に手を上げた。

 

残った者で病院のシステムを維持した。

その時点では、インフラは機能していたのだが、

原発から 30 km 以内が 「緊急時避難準備区域」 に設定されたことで、

補給が断たれることになる。

 

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最初になくなったのが、酸素の備蓄。

DMAT も救急車も入ってこなくなった。

マスコミの取材依頼があって、ぜひ実情を見て伝えてほしいとお願いしたところ、

30km の外に出てきてほしいと言われ、絶句した。

30km 圏内の特別養護老人ホームの方々は全員避難したが、

その4分の1の方が 3ヶ月以内に亡くなった。

「原発事故で一人も死んでいない」 って、どうなんでしょう・・・

 

坪倉さんが支援に入って最初にやったことは、

避難準備区域になったことで入院できなくなった人を、

30km の外に野戦病院のようなものをつくってそこに集めるお手伝い。

次に薬の処方箋書き。

レントゲンのフィルムが感光(放射線を受けている) しているのが見つかり、

防護を強化し、導線を作り直した。

 

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その時点で病院にあった線量計は1個だけ。

坪倉さんはその線量計を持ってあちこち測り始める。

一番高かったのは空気清浄機の中のエアフィルターだった。

朝の外来のあと、1個の線量計を持って順番に学校に出向き、

測定しては図に落として、学校に渡した。

 

しかしそれだけでは、どの程度安全なのか危険なのかが判断できず、

内部被ばくを測らなければ・・・ ということになったのだが、

機械もなければ人もいない。

何を使って、誰が、どうやって測るのか。

5月に、副院長が宮城の女川原発まで行って

HBC(ホールボディカウンター) で測ってもらったところ、

数千Bq(ベクレル) という値が検出された。

 - 内部被ばくしている。 これは測らなければならない。

それから機械を求めて奔走する。

 

2011年7月、人形峠(岡山と鳥取の県境、ウラン鉱山があった峠) から

第1号機が到着する。

しかし、誰が、どうやって・・・・・皆で目を合わせた。

しょうがないので、翌日、自衛隊の中央病院まで出かけて検査の方法を習った。

そして HBC での検査を開始。

日本国内で市民を対象に検査をやった初めての病院が

南相馬市立総合病院ということになった。

 

以後1年間で、福島全体で 5~6 万件の検査が行なわれたが、

その3分の1は南相馬での測定データである。

ベラルーシとウクライナでは、事故後1年で13万件の検査が行われている。

27年前のロシアですら、この数字である。

いかに日本の体制がお粗末であったか。 しかしこれが現実だった。

 

2台目の HBC が届いたのが、8月。

それは福島第1原発のオフサイトセンターにあったもので、

破壊と汚染で修復するのに5ヶ月かかったということ。

今では新型の機械が稼働しているが、

逆に測定を求めて来る人はめっきり減ってしまった。

 

すみません。今日はここまで。

 



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