2008年12月24日

私の 「水俣」

 

さてさて、またもや数日の時間がたってしまったが、水俣での話に戻りたい。

生産者会議解散後、僕は一人てくてくと、ある場所を尋ねた。

財団法人 「水俣病センター相思社」。

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今ではほとんどお付き合いはなくなってしまったけど、

かつて、ここで1982年から10年ほど続いた、

水俣病と有機農業を学ぶフリースクール-「水俣生活学校」 というのがあって、

僕はその学校設立にあたっての出資 (債権) 者の一人だった。

大地を守る会に入る前の話である。

出資金額はたかが一口5万円だけど、まだペエペエの自分には、

とてもきつい、決意のいる金額だったんだ。

 (今でもしんどい額だけど。 いや、今なら出さないかも・・・セコクなったねぇ)

閉校になった後、出資金は返せないと言われてしまった。

 

というわけで、この地に来た以上、外すわけにいかない表敬訪問だったのだ。

べつに借金の取り立て、とかの意味ではなくて。

 


上の写真は、相思社のなかにある 「水俣病歴史考証館」 という建物。

水俣病の歴史を語る資料が展示されている。

元は、水俣病患者さんたちの自立を支援するために建てられたキノコ工場である。

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水俣病の歴史を解説するのは、ここでは省きたいが、

チッソ水俣工場から工場排水と一緒にメチル水銀化合物が水俣湾に流されたのは、

1932 (昭和7) 年から始まっていること、

その後不知火海 (八代海) 一円で水俣病が発生し、風土病とか言われながら

患者さんおよびその家族は婚姻などで差別された歴史があったこと、

水俣市が公式に水俣病を 「確認」 したのは1956 (昭和31) 年、

国がチッソ株式会社の排水による公害病として認定したのが1968 (昭和43) 年、

という時間があったことは押さえておいてほしい。

「水俣病」 が世に知られてから、すでに半世紀の歳月が流れている。

 

公害病と認定されるまで、いや認定されてからも、

日本の化学・軍需産業の発展を担った " 天下のチッソ " の城下町として栄えた

この町で、チッソと喧嘩することがどんな苦しみや迫害を伴ったか、

想像するだに辛いものがある。

そして悲劇は、より残酷な現実を世に送り出した。

母の毒を一身に引き受けて、母を救うために生まれたような

 「胎児性水俣病」 という病名を背負った生命の誕生である。

 

僕が初めて水俣病を知ったのは、中学生の頃だったか。

NHKの 「新日本紀行」 とかの番組で、水俣で奇妙な病気が発生している、

という報道だったように記憶している。

それが企業の排水による公害だったということになって、チッソの株主総会に

「怨」 の字を縫い付けた法被を着た漁民たちが攻め込んでいた。

僕も四国の片田舎で毎日海を見ながら生きていた者である。 連帯感を感じたものだ。

くわぁーっと胸が熱くなって、「よし、弁護士になってやる!」 と決意した。

いっぱい勉強しないとなれないと分かったのは、高校生になってからだったかな。

正義の味方だと胸を張っても、近道はないのだった。

諦めも早かったなぁ。 何たってテキは社会悪の前に、 「ベンキョー」 だったから。

 

ま、そんな与太話はともかく、

相思社を訪ねれば、「もうその頃のスタッフは残ってませんねぇ」 とか言われながら、

でもさすがに、元生活学校の債権者という威力だろうか。

栃木出身の高嶋由紀子さんという若い女性が丁寧に応対してくれた。

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患者さんたちの位牌を預かっているというお仏壇に、お線香を上げさせていただく。

この儀式は、今の自分への改めての問いかけである。

 

歴史考証館を見学させていただいた後、

水俣の今を案内してもらった。

 

ここは最も水俣病の発症が多かった茂道という地区。

当たり前のように佇む、海。

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海の神さんや山の神さんらと楽しく共存していた無辜な漁労の民が、

近代化という遠い雷鳴のせいで、なんで生きて地獄を見なければならないのか。

切なさが込み上げてくる・・・・・悔しいなぁ。

 

港々のいたるところにエビス様が、鎮座している。

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 エビス様は、漁師の安全と豊漁祈願の神様である。

僕の田舎では、エベっさんって言われてるけど-。

高嶋さん- 「はい。 こっちでもそうですよ。 エビスダニさんて、もしかして由緒ある・・?」

・・・・・いえ。 えべっさんとは呼ばれてたけど、べつに、ただの貧しいウチです。

ハァ・・・(つまんない) 。

 

ここが元工場の百閒 (ひゃっけん) 排水口。

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昭和の初期から30年以上にわたって、

70~150トン、あるいはそれ以上の有機水銀が垂れ流された。

堆積した水銀汚泥は、厚さ4メートル以上になっていたという。

1977年、県は汚泥除去をかねた湾の埋め立てを行なった。

工事期間14年、総工費485億円、失われた海58ヘクタール。

水銀ヘドロとともに、汚染された魚もドラム缶に詰められ、埋められた。

結局、誰が儲かったのか。 誰が負債を請け負っているのか・・・・・

 

その土地は現在、公園になっている。 公園に立つ記念碑。

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ここで2004年8月、石牟礼道子さんの新作能 「不知火」 が上演された。

台風も一日待ってくれた、とか。

その埋め立てられた海の上に立って、はからずも泣きそうになる。 

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この足の下に・・・・・もう、なんも言えねぇ。

 

高嶋さんはよく気のつく方で、「ガイア水俣」 にも立ち寄ってくれた。

大地を守る会では、乾燥アオサをいただいている。

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患者さんたちがつくった甘夏栽培の会 「きばる」 の事務局を務めながら、

いろんな水俣産品を販売して水俣の再生と活性化に尽力している。

右が藤本としこさん。 水俣市初の女性議員となった方。

隣のお二人は、高橋昇さん・花菜さん親子。 東京・世田谷から水俣に移り住んだ。

水俣は、ただの悲劇の街ではなく、その歴史ゆえに、

希望の意味を深く考えさせる力を持っているのかもしれない。

 

  「一生かかっても、二生かかっても、この病は病み切れんばい」

  わたくしの口を借りて、そのものたちはそう呟くのである。

  そのようなものたちの影絵の墜ちてくるところにかがまり座っていて、

  むなしく掌をひろげているばかり、わたくしの生きている世界は極限的にせまい。

 

  年とった彼や彼女たちは、人生の終わり頃に、たしかに、もっとも深くなにかに到達する。

  たぶんそれは自他への無限のいつくしみである。 凡庸で、名もないふつうのひとびとの

  魂が、なんでもなく、この世でいちばんやさしいものになって死ぬ。

 

  祈るべき天とおもえど天の病む

                         - 石牟礼道子 『不知火』 (藤原書店刊) より -

 

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Comment:

水俣のお話、読ませていただきました。
佐藤も生活学校、水俣は20年以上前に何回か訪れた地で、その記憶は戎谷さんのブログの写真のように今でも鮮明です。高校生のころ原田正純さんの水俣病や石牟礼道子さんの苦界浄土を読み水俣を訪れたことが今の自分に繋がっていると言っても言いすぎではありません。

from "佐藤誠之" at 2008年12月31日 11:30

戎谷さま

何年ころだったでしょうか。生活学校の時間外で高橋さんともう一人の方と一緒に傾斜地の野焼きをしました。風が強い日で放った火が短時間で想定外に燃え広がり、1ha位の中で広がりそうになる火を必死で鎮火をしたことが昨日のようによみがえりました。

さとう

from "佐藤誠之" at 2008年12月31日 11:50

佐藤様

コメント有り難うございました。佐藤さんは生活学校出身者だったんですか。存じ上げず失礼しました。お互い、何年たってもミナマタは重たく腹に留まってますね。今度一杯やりましょうか。

from "戎谷徹也" at 2009年1月 7日 20:40

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