2007年7月31日

原発3題

 

このテーマ、「そのお題、いただきます」と始めるには重たすぎる。

 

正面切っての論陣は、この場にはふさわしくないようにも思われるし、

そこは長く関わってきた人にお任せするとして、

それでも私は私なりに、避けて通りたくない、という思いがある。

 

"許せない" というより "やるせない" という陰鬱な感じが抜けないのです。

うまく語れるかどうか心許ないけど、吐露してみたい。

 


まずは先週の土曜日に開かれた、青森・六ヶ所村での核燃料再処理工場

の稼動に反対する全国ネットワークのキックオフ集会。

赤坂のドイツ文化会館で開かれ、全国から400人ほどの人が集まった。

 

再処理工場が稼動すれば、原発一基が一年間に放出する量の放射能が

一日で環境に放り出される。


国も県も、農産物や海産物の放射能濃度が高くなることを認めている。

それでも「大丈夫」なのだという。

 

大地にりんごや米を出荷する新農業研究会・今井正一さん。

自然豊かな青森の農林水産物が放射能で汚染される。

何としても止めたい。支援してほしいと訴える。

スクリーンには、大地の消費者とりんご畑で交流している絵が映し出されている。

e07073001.JPG

 

今井さんの訴えを聞きながら、

原発を科学的視点だけで考えると大事な部分を失う、

そんな思いに取りつかれた。


放射能は一ベクレルといえども、'確実なリスク'である。

なければない方がいい。

 

その汚染が確実に高まる。

青森県は、再処理工場稼動後も一次産品の放射能汚染レベルをモニターするというが、

実際にどれくらいの汚染になるのか、

どういうふうに魚介類に蓄積し、食物連鎖や生態濃縮が進むのかは、

正確には予測不可能である。

濃度が高まって、その数値を示されて、

「でも安全です」と言われたところで、人々は電気の代償にその魚を食べるだろうか。

これは生産者の深い疑問である。

 

しかし、それ以上に思うのは、

食べものを育てる(あるいは採取する)人々にとって、

生産地というのは極めて神聖な場であって、

そこの安全性の確保は生産者の意気地のようなもののはずだ。

それを他人が勝手に踏み込んできて、

「まあ、大丈夫なはずだから」 といって

大切なフィールドを汚染してもかまわないという感性は、許されていいものだろうか。

食べるヒトの健康を維持できる「閾値(いきち)」さえ守ればいいものではない。

(それさえも守れない可能性があるのだが)

 

これは理屈で押し倒すレイプのような気がする。

 

「俺らにも、誇りはあるだべしな」 (という言い回しでよかったかしら...)

 

僕は誰が何と言っても、今井さんを支持することを宣言したい。

 

さて次に、柏崎刈羽。

いったい、どうなってんの......だよね。

地震による被災者の復興報道は少なくなっても、

原発関連では毎日新たな事実が明るみに出てくる。

 

変圧器が黒焦げになり(これはとってもヤバイことだと思うのだが)、

7基のすべての核燃料貯蔵プールから放射能を含む水が漏れ、

原子炉上の天井では巨大クレーンが破損し、

地震の揺れは想定してあった上限の6.8倍だったとか。

 

もはや再稼動は無理であろう、

とかいう冷静な分析より重要な問題があるような気がしてしょうがない。

企業としての基本姿勢(モラル)に欺瞞がなかっただろうか。

 

そもそも原発を稼動させるための「必要な想定」でしかなかったんじゃないか。

地震がなかったら、数年後、もっと怖いことが起こったのではないか(運がよかった)。

耐震設計の基準(指針)を守り、安全確保するための運用体制すらなかったんじゃないか。

だとすると、この間の食品偽装で叩かれた企業に匹敵するような話になるけど。

 

この疑問を、どなたか解いてほしい。

 

最後に3題め-

秋田県上小阿仁(かみこあに)村で、村長が手を挙げていた

高レベル放射能廃棄物の最終処分場誘致(のための立地調査)につき、

7月28日、立地調査への応募を断念表明した、とのこと。

 

核のゴミを引き受けよう、という男気のような話ではない。

立地調査だけで多額の補助金が入る。

それを村の逼迫した財政の建て直しに充てたいと考えたが、

村民が反対して、村長も騒動を治めざるを得なくなったという話。

 

先発では、高知県東洋町で同様の騒ぎがあり、町長が失職した。

 

置き去りにされた地方に、札束を見せながら手を挙げさせる、という構図。

東洋町の'近隣市町村'出身の私としては、歯ぎしりではすまないのだが、

頑張って私情を捨てても、あまりにも哀しい話である。

 

こんなに人心を情けなくさせても、進めないといけないのだろうか。

こうまでしないと、僕らは暮らしてゆけなくなったのだろうか。

海に放射能を垂れ流し、トイレを探しながら......

 

たとえ大惨事が起きなくとも、未来をいま、食い尽くしているような気がする。

これはどう考えても、「退廃」ではないのか。

 

矜持(きょうじ)を持った生産者と、未来を切り拓きながら生きたいと、思う。

 



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