2012年10月15日
"奇跡の出会い" から30年 ~ 山形村物語(最終回)
しつこい山形村レポート、最終回とします。
広々とした牧場で悠然と過ごす短角牛を眺め、
直後に牛ステーキを 「なるほど」 とか言いながら腹に収めた一行は、
休む間もなく会議室に。
村 (今は 「町」 だけど) の関係者に集まってもらっての意見交換会を開催。
口火を切ってもらったのは、元山形村・村長の小笠原寛さん。
1983年、35歳の若さで村長となり、4期16年にわたって村の発展に貢献された。
就任当時、たしか日本一若い村長さんとして
週刊誌にも登場したことがあったと記憶している。
今も毎日山に入る、現役の林業家だ。
「 30年前に村長選に立候補しようと思ったきっかけは、
とにかく村の人たちに自信と誇りを持たせたい、という一心だった」
と小笠原さんは語る。
都会に出た時に、「岩手県山形村出身です」 と胸を張って言えるような村にしたいと。
小笠原村政のポイントは、地元にある資源と文化を見直し、
それを基盤にして " 自立 " を目指したことにあったように思う。
レジャー施設やリゾート開発といった都市追従型の資源の切り売りではなく、
短角牛と山林資源を柱にした地場産業のしっかりした立て直しと、
地域の文化を再発見して、食の安全や環境で勝負しようとしたことだ。
〇〇がないからできない、ではなくて、〇〇がないからこそ〇〇ができる、と
村民たちとの対話を進めた。
当時としてはまだ新しいグリーンツーリズムの発想も持っておられた。
そして文化の再発見には、外からの視点が必要だとも考えておられた。
そんな時に、大地を守る会と出会ったのである。
小笠原さんにとって 「この出会いは、まさに奇跡だった!」。
都市との交流が盛んになるにつれ、村への誇りも湧いてくるようになった。
短角牛にも一流シェフのファンがついてきて、
草を食む健康な牛-グラス・ビーフ として注目されてきた。
100%国産飼料への道のりは簡単なものではなかったが、
「これで自分たちのブランド・イメージが固まった」 と、
短角牛肥育部会長の下館進さん (上の写真右端) は語る。
若手のホープである柿木敏由貴さん (同左から二人目) が
家に戻って就農しようと決意したのも、
「経済だけじゃない。 たくさんのファンが来てくれ、価値を認めてくれる」
「外(都市) の人たちとの交流が活発に行なわれている」 ことを
「面白い」 と思ったから。
自給飼料を増やすために、遊休地をデント・コーン畑に変えてきた。
これは景観維持にも貢献している。
しかしそれでも、生産者の減少による悩みは、ここも同じである。
林業も高齢化が進み、
確実に 「山を手入れする人は減ってきている」 (小笠原寛さん)。
それによって自慢の山の幸も少なくなってきた。
これからの重大な課題である。
短角牛を使い切るために、スジ肉やたくさんの具材を使って
短角牛マンを開発した 「短角牛マン母ちゃんの会」 の下館豊さん (下の写真・右) と、
「まめぶの家」 を運営する谷地ユワノ (同・左) さん。
牛マンの開発にあたっては、
配合を変えたり具材を付け加えたり、何回も何回も試作して生み出された。
今も季節によって具を変えたりしている。
日量300~400個つくれるようになって、
ようやく観光会社からも大量の注文が入ってきたと喜んでいる。
まめぶに至っては、7つの集落ごとに具や味付けが違っていて、
以前に 「まめぶサミット」 というのを開いてコンテストをやったが、
みんな自分のが一番だと主張して、決められなかったとか。
この各戸秘伝の味が今や久慈の郷土料理として市全体に広がって、
月一回の料理教室も開いている。
近々北九州で開かれる 「B-1グランプリ (B級ご当地グルメ大会)」
にも出展するらしい。
まめぶを " B級グルメ " とはいかがなものかと思ったが、まあ
前に出ようという勢いがあるのはイイことか。
最後のあたりで、牛の王子様・カッキー こと柿木敏由貴が注文をつけた。
スローフードとして短角牛が認定されたけど ( 『味の箱舟』 のこと)、
あまり経済にはつながってないように感じる。
いま検討されている 「マニュアル」 というヤツも、
ただの紹介や参考書のようなものでなく、
現実に地域の経済 (生産者の経営) に貢献できるものに作り上げてほしい。
委員会一同、「肝に銘じます」 。
肝に銘じたところで、山形村編、終わり。
ようやく終わったと思ったところで、
明日は朝6時に出発して、福井県小浜市に向かうことになっている。
今夜は飲まない、少ししか。。。